トゥインクル・トゥインクル・キラー・カーン【ネタバレ前提注意!】
ネタバレ前提で記事書いてます。とっても注意です!オチを知りたくない人は回れ右。
<宿題>
我々のブログは”出来たてホヤホヤ”で、まだGoogleにもウンともスンとも引っかからない状態でございますだわな。
(出来たてアツアツなのですよ、『自恃あれ』は)
まあ、半年間ぐらいは地道にゆっくりとやっていこうと二人で決めています。
しかしそんな中で、Googleがひっそりと反応するものがひとつあったんですね。
それが「トゥインクル・トゥインクル・キラー・カーン」だったんです。
え、そこ?
と、困惑しましたよ、私は。
たしかに「エクソシスト3」の記事内で「トゥインクル(以下省略)」を"観る予定"だと書きました。
そう書きましたけども…書きましたけども!!
これは「天から与えられし我らの宿題」なのか。
なぜ「宿題」かと申しますと・・・
たしかに私は「エクソシスト3」の後ソッコーで「トゥインクル」観ました・・・。
しかし、本作「トゥインクル・トゥインクル・キラー・カーン」は・・・
<初見殺しの映画だったのです>
ガビ~ン
(激しくショックを受けたときに発する言葉。または若年層の背筋を凍りつかせる作用がある言葉)
本作を真の意味で語れる人って、映画を読み解く技能がとても発達しているお方、その技能で飯を喰っているプロのお方なんじゃないかな。
IQマイナス500みたいな私にはとてもじゃないけれど、一度観ただけでは何も語れないです。
そもそも、本作は物凄い熱と力が入った作品で、「一度観てハイ終わり」を思いっきり拒否しているような作品でもある。
なんか、ブラッティさん(注意:気安く読んでいるがウィリアム・ピーター・ブラッティ氏のことである)の想いが密々に詰まった濃厚100%饅頭みたいな映画なのである。
なので、二回観ました。
(ちなみに上映時間が1時間53分です)
二回観たら、さすがに観やすかったですが私は理解しているのかどうなんだか。
<ここからネタバレ前提で話していきます>
※DVDのタイトルは「~キラー・カーン」ですが、本編の字幕では「ケーン」ですので記事中も「ケーン」で統一します。なんでこんなややしいことにしたのか。配給元に訊いて下さい。
<奇妙な友情からお互いを救済する話>
だと、私は思いました。
奇妙な友情とは、もちろんカットショウ大尉とケーン大佐の関係性のことです。
月に行く直前に「ああー!行きたくないー!」と発作的な不安に襲われ、古城に収監されることになった宇宙飛行士のカットショウ大尉。
目元がチャーミングで、所謂"正気"な軍人たちに監視され、規則だらけの施設内を混乱とカオスに叩き落としたい人。
そしてこの四角い人こと"キラー・カーン"!タイトルの人であります!
(字幕では”ケーン”ですので、これ以降記事内も”ケーン”で統一します)
本名はヴィンセント・ケーンですが、この古城の施設に精神科医のハドソン・ケーン大佐として赴任してきます。
施設と患者を管理している少佐に「ユング以来の最高の精神科医だ!お前ら敬え!」と紹介されますが、本人は実のところ精神医学の知識は1ミリもありません。
何故なら、彼はベトナム戦争で30~40人いや、それ以上のべトコンを殺害した海兵隊の特殊部隊に所属していた軍隊の中で伝説となっているヴィンセント・ケーン大佐だからである。
んでしかし、べトナム戦争といえばですね、女も子供も兵士としてアメリカ人と戦ったわけでして。
このヴィンセント・ケーン大佐も少年兵を殺したことをキッカケ(というか蓄積していたものが爆発したと私は解釈します)に、心を病んでしまいます。
「精神科医のハドソン・ケーン大佐として人違い(軍の勘違い)をされた為」アメリカへと帰国命令が出されます。
そしてこの施設にやってきたのです。
本人は自分のことを「精神科医ハドソン・ケーン大佐」だと思っています。
だから、本作は反戦映画でもあると思うんですよね。
人を何十人も殺して平気なのはサイコパスだけなんですよね。いくら優秀な軍人だからって人を殺すのはとても心の負荷が大変重いことなんですよ。
<舞台>
時代はベトナム戦争の末期、精神を病んだ兵士たちの療養施設として使われている古城で物語が進んでいきます。
主人公たちがいるのは、いくつかある施設のなかでも特に実験色が強い「18号棟」。
患者は当然、全員が軍人です(管理するほうも全員軍人)。
宇宙飛行士のカットショウ大尉はよく分かりませんが、ほぼ全員戦争に参加した軍人だと思われます。患者たちの見た目の年齢から察するにベトナム戦争だろう。
あ、そうそう、
<これを一種の清涼剤という>
患者役で「エクソシスト1」、「3」のカラス神父出てます。
カラス神父はですね、ベトナム帰りの宮本○門みたいな人で「オールキャスト犬」でシェイクスピア劇を演出しようとしています。
なので、いつもモップみたいな犬を連れています。
どこが顔なのか分かりません。
本作はコメディ的要素もある作品なんですけど(ロウテンションな笑い)、いかんせんベースが暗くて重いんで、カラス神父と犬たちに心が休まる・・・かもしれません。
他にもオカシな患者が沢山出てきますが、このブログではカットショウとケーンに絞ります。そうしないと記事の長さが大河小説並みになるので。
<それこそ我が宿命なりけりやで~>
と、
いうわけで、ケーンが古城にやってきた初日からバアァーーーーン!と扉を思いっきり開けてカットショウが診察室に入ってきてぎゃーすかぎゃーすかとイチャモンをケーンにつけてきます。
「俺のカルテを読め!そうしないと気が狂う!」とかですね、患者たちのカルテをバラ巻いてもう滅茶苦茶です。
施設にやってきた新人としてのケーンをおちょくっているんですが、ケーンは動じません。
そうなんですよね、鑑賞二回目で気づいたんですけど、ケーンは喜怒哀楽のふり幅がとても狭くて(笑うなんてことは絶対にしない)、少しだけ困惑しているような表情も見せますが、彼の姿って「ひとつのものを信じているソレ」なんですよ。
それも、狂信的に・・・
何を信じているかって、
人を救うことですよ!!!
ケーンは人を救うことに憑りつかれている人なんです。
それって、"キラー・ケーン"であった過去の自分に対する贖罪なんですよね。
本人はまったくそのことに気づいてないけど(心を病んでいますから)。
ケーンを演じるステイシー・キーチの演技も伏線の一つだったんですよね。
<鑑賞二回目にしてやっとこさ>
本作の大筋なオチのひとつとして、「精神科医ハドソン・ケーン大佐は実は"キラー・ケーン"ことヴィンセント・ケーンだったのだ!」があります。
鑑賞二回目中、伏線の嵐だったことに気がつきました。
まあ、有名なのは(どこで有名?)軍医のフェルがケーンに初めて会うなり、「ヴィンセント」と言ってしまう場面。
軍医のフェル。
実は彼が本物の精神科医ハドソン・ケーン大佐であり、ヴィンセント・ケーンの実の兄である。
自分と間違われて帰国してきた弟を見て「あ、こいつヤバい」と早々に気づいて弟を自分の患者として「実験色の強い」この施設に連れて来させた。
「(ケーンは”精神科医として”患者たちと交流していくなかで)病気と戦わずに自分を救う方法。だが実は手を汚している血を洗い流す道。人を救って虐殺の罪を償うのだ。何とか彼にやり遂げさせたい。」(兄の弁)
まあ、それが「実験」ということです。通常の投薬治療じゃありませんもんね。
「このお兄さん、ヒドイ!」と思う方も中にはいるかもしれませんが、このお兄さんとても優しいですよ。「実験」とは言葉悪いかもしれませんけど、真剣に弟のことを想っているのは鑑賞一回目でもわかりますし、そう撮っています。
”精神科医”のケーンが”ベトナム時代の”ケーンの悪夢を見て、「実は私の兄はあの”キラー・ケーン”で彼は殺人者だ。けど彼は死んだ」と言われたときは、弟の病の重さに涙を流します。あと、アル中気味ですね。たぶん。
しかし、ケーンの実の兄である軍医フェルが(実際には精神医学の知識が何一つない)”精神科医”ケーンに向かって「(患者たちに訊くのは)ショック療法かもな」と(恐らく本意ではなく)冗談で言ってしまったのも、悲劇が起こってしまった大きな要因の一つだと私は思う。
そうそう、このフェルさん、「エクソシスト3」での首ちょ〇〇神父です。
カラス神父と同じフレーム内にいるのを観て感動しました。
あとは、ケーンの"精神科"らしからぬ独白の重さですよね。
「我々は陸に上がった魚だ(省略)…耐えられぬ死…まさに死だ…」とかですね。
「悪は狂気の産物ではない…狂気が悪の産物なのだ」とか、この人赴任してきたばかりなのに(しかも窓見ながら泣いてるよ)大丈夫?
という、コイツ、只者じゃねえなという感じは冒頭からフルスロットルでしたね。
モップ犬を貼ってみる。顔が分かりますね。
<重要なメダル>
そして、例のメダルですよね、カットショウのメダル。
カットショウが鎖のついたメダルをネックレスみたいに首から下げてるんですね。
で、「このメダルが欲しいんだろ!??さっきからずっと見てる!」とケーンにイチャモンをつけます。
で、なんのかんのとやりあった後で、カットショウがケーンのことを
「お前は狂ってる」(人を見る目があるカットショウなのであった)、
「気に入った」
と言って、そのメダルをケーンにあげます。
鑑賞一回目の私は「ふふふ~ん♪」と観てて、このメダルの重要性に気がついていませんでした。
自分のアホさ加減にH-E-K-I-E-K-I
私を足蹴りにして唾を吐きかけて下さいませ。興奮しますから。
<カットショウ大尉が抱える”恐怖”について>
ケーンが貰ったメダルを見るとそれは「聖クリストフォルス」のメダルでした。
「聖クリストフォルス」のメダルは、『旅行者の守護聖人』として70年代のアメリカで流行ったそうです。
カットショウは宇宙飛行士なので、お守りとして持っていたのでしょうね。
いつから持っていたのかは分かりません。
実は私、本記事を書くにあたって「大尉」とか「少佐」とか間違いたくありませんでしたので、「トゥインクル~」の英語版ウィキをDeep L翻訳で読んでたんですね。
すると、ビックリすることが書かれておりまして。
ブラッテイさん曰く、本作「トゥインクル~」のカットショウは「エクソシスト1」でリーガンに「お前は宇宙で死ぬよ」と言われた宇宙飛行士なんだそうです。
そんなキャラクター、いましたよね。
ウィキ(映画エクソシスト)で調べたら、演者は違いますが確かに
Dick Callinan as Captain Billy Cutshaw
と、ウィキに記載されていました。
「トゥインクル~」の原作は、「エクソシスト」(小説)の後に書き直されているんですよ。どうやらその時にそう設定したらしいです。
「エクソシスト」のファンダムを覗いてみますとハッキリとこう書かれていました。
ビリー・カットショー船長は宇宙飛行士で、マクニール邸でのクリス・マクニールのパーティーでは著名なゲストの一人であった。その後、憑依したリーガン・マクニールに「宇宙で死ぬ」と吹き込まれ、彼と他のパーティ参加者の目の前で放尿する。カットショーが宇宙へ行くことになった時、極度の神経衰弱に陥ってしまい、ミッションを中止した。彼は施設に自らを収容した。
(Deep Lにいつもお世話になっています。)
世界線は一本に繋がっていたのですね。
元々精神不安定だったのかもしれませんが、リーガンの言葉でトドメを刺されてますね、カットショウは。
それに「エクソシスト」は映画でも小説でもカラス神父が(ど派手な死に方で)死んでいます。きっとテレビや新聞にも報道されたはず。そもそもリーガンの母親は女優ですからね。
カットショウはそれらの報道にも目を通したはずだし、耳には絶対に入ったきたはず。
そりゃあ、宇宙に行く前に神経衰弱になるってもんだわな!
ならないほうがオカシイだろ。
しかし、トゥインクル原作版では分かりませんが本編(映画)ではそんな設定がひとつも語られることが無いので、このカットショウの設定は気にしたほうが良いのか、気にしなくて良いのか、ブラッティさんは原作と映画は別物派な人なのか(しかし監督はご本人がしてるしなあ)、判断がつきませぬ。
ですから、このメダルがカットショウにとってどれぐらい大事なものなのか、
単なるお守りとして特に意味はなく持っていたのか。
それとも、リーガンの言葉(や、そのあとに続くマクニール家で続いた一連の出来事)
を聞いて持つようになったのか。意味合いが全然違ってくると思うの。
しかも、それをケーンにあげるって、単なる自分の所有物を気まぐれにあげたのか、自分の大切な物をあげたのか、意味合いが全然違ってくる思うの。何度も言うけど。
そんなカットショウに、ケーンは幾度も彼にこう言います。
「何故月へ行かんのだ」と。
カットショウを再び宇宙へ、そして月に行かせること、
悪魔の邪気に触れられたカットショウを復活させること、それが”天使”ケーンの(ケーンにとって半ば強迫観念的な)役目なのであります。
<天使との会話>
ケーンは(カットショウだけでなく全員を救うため)何事においても患者第一優先主義なため、規則でまとめていた施設内がカオス状態になっていきます。
犬 が い っ ぱ い お り ま す。
そのため、管理役の少佐がケーンに苦言を呈します。そりゃそうだ。
SURUTO、ケーンが今まで見たこともないような物凄い剣幕で怒ります。
「少しは人を愛し、人を救ってみたらどうだ!神の愛に代えて救うのだ!」
少佐はドン引きで、立ち去りました。
何かひとつのものを妄信している人の邪魔をしたら痛い目に合う好例のような気が。
するとそこに、カットショウがまたもやバアアン!!と現れます。
カットショウはこれまでも深夜に急に「ビーチに行こうぜ!」と急な誘いを
カーンにしてきたのですが、今回はフランケンシュタインのマスクを被ってやってきました。
カットショウはそのうち、世界には沢山ひどいことが起きているとかナントカとケーンに怒りをぶつけます。
私、これ、鑑賞一回目のときは「ほげぇ~」と馬鹿顔で聞いていたのですが、鑑賞二回目で「ほげ?」とやっとこさ5ミリぐらいは頭が正常に機能いたしました。
この二人の会話って、"人と天使の対話"でしょう!!?
カットショウが戦争や病気とか世の中には人を苦しめるものが一杯ありすぎるとかナントカカントカ言います。
そのたびにケーンは、「原罪のせい」と答えます。
カットショウはその答えにまっっったく納得がいきません。
そりゃそうだ。
嬉しいのはカットショウが広島の原爆について言及してくれたこと。
カットショウが神はどこにいるんだよ!?と言うと、
「神は人に干渉しない」とケーンは答えます。
ケーンは冷たいようですが、それはそれで違うんです。
ケーンは善は人に宿っていて、だから人はいろんなものを乗り越えて明るい未来が築けるはずなんだ、とカットショウに伝えます。
そこで、ケーンは自分の命と引き換えに部隊を救った兵士の話をします。
カットショウはそれは人の善とかじゃなく、単なる自殺だろ!!と返しますが、
明日ミサに連れて行ってくれ、と言い残しカットショウは去ります。
もちろん、ケーンは天使ではありません。背中から羽が生えるそんな映画ではありません。
何故"天使"のごとく答えるのか。何も疑問を持たず、カットショウに言い切るのかは私にはちょっとわかりません。「心を病んでいるから」だとは思いますが、これはちょっと、ブラッティさんに訊いてみないとわかりません。
そもそも本作は冒頭からして、空に浮かぶ三つの十字架とかですね、
カットショウのこの台詞からして、
(お空を見てケーンが古城に赴任してくることを予言している)
超自然的なアレのソレを目配せしておりますからね。
<死んでも命があるなら合図をしてくれ>
カットショウの願いで二人はミサに参加します。
カットショウは女の子が着るような"晴れ着"を着てきます。
ケーンは一瞥しますが、何も言いません。クスリともしません。
ケーンにとってはそんなことはどうでもいいのです。
(まあでもここは多分ギャグ・シーン)
もうね、本当ね、それからの一連のシーンね、"カットショウのメダル"の次に重要だわな。鑑賞一回目の私よ、聞いてるか。
ミサが始まり、ケーンはふと壁にかかっているタペストリーに視線を向けます。
そこに書かれていたのは・・・
「命を捧げる」
と書かれていました。
(もうダメだ・・・と私は思いました。)
カットショウが神父をおちょくって雰囲気を台無しにしたあと、二人は古城に戻ります。
カットショウはケーンに「死んでも命があったら合図をしてくれ」と軽口を言いふふん♪るんるん♪と立ち去っていきます。
(もうダメだ・・・と私は思いました。)
<ショック療法>
話が前後しますが、「ショック療法」も大事なキーワードです。
モノホンの精神科医ではないが、元は優秀な軍人ゆえ根は真面目です。
精神医学の知識はありませぬが勉強熱心なケーン大佐。
(机の上にはカットショウから貰ったメダルがあります。暗くて分かりづらいけど。)
ノートに「患者にはショック療法が効くかもしんまい」と書きつけています。
(これはシューマイ)
何度も言いますが、ケーンは本物の精神科医じゃありません。
そう思い込んでいるだけです。成りきっているだけです。
本物の精神科医ならば、治療法はいくつか候補にあげて試案するはず・・・
誰だこの人に変な考えを吹き込んだのは・・・
ケーンは(実の兄こと)軍医のフェルの冗談を真に受けたのです。
そしてこの思い込みが点と点とを結び、一本の線に繋ぐ役割を果たすのでした。
<バーでの死闘>
ひょんなことから(ケーンのかつての部下がこの施設に入居してきてしまう)、
精神科医ケーンがあの伝説の"キラー・ケーン"だったことが知られてしまい、古城内は騒然となってしまう。
ケーンは部下だった男に「"キラー・ケーン"・・・?( ゚д゚)ポカーン」と指摘された時点で失神してしまう。
目覚めたケーンは何も覚えてなかった("精神科医"ケーンのままである)。
しかし、
カットショウは「何が人の善だ!ただの人殺しじゃねえか!信じてたのに!」っつーことで、車でバリケードを破壊しバーにヤケ酒を呑みに行ってしまう。
カットショウは軍人だけれども戦争に参加したことはないのかな?
ずっと宇宙飛行士だったのだろうか?
同じ軍人ならば、ケーンがベトナムで取らざるをえなかった行動を少しは理解しても良さそうなのに、と私は思ったのだが・・・
恐らく、ケーンの殺害の仕方が残酷過ぎてそれで有名だったからであろう。
(本編では針金でベトナム少年兵士の首を切り取っている)
広島の原爆にも不快感を示していた彼なので、戦争は戦争でも最低限の人道的なやり方があると信じているのかもしれない。
カットショウは基本的には純粋で優しい人なのかもしれないですね。
(暗くて分かりづらいですけど、チャンネーがテーブルの上で踊ってんす)
というわけで、この世の地獄絵図みたいなバーで酒を吞むカットショウなのであった。
同じバーで乱痴気騒ぎをしているバイカーのひとりにカットショウが"あのマヌケな"宇宙飛行士”だと気づかれてしまう。
カットショウに対する暴力がひどくなり、騒ぎもどんどん大きくなる。
バーの店員さんからSOS電話を受けたケーンは
単身で乗り込んでいく。
(なんでやお前!!)
ケーンはカットショウを救うべく、バイカーたちの無茶な要求や意地悪に耐えて耐えて・・・
(アメリカ映画あるあるの暴言・暴行シーンを思い浮かべよう♪)
SHIKASHI、
カットショウが性的暴行(と云っていいはずだアレは)を受けているのを見てついに怒りが頂点に達しというか、"キラー・ケーン"に戻ったかのように爆発してしまう。
男も女もブチ〇してしまいました。
しかし、本編のバイカーたちはロクでもない連中ばかりなので全く同情ができない。
むしろ、さっさと〇されてしまえと思ってしまう私は悪い人間なのか。
<ケーンの死>
バーでの一件により、警察とともに二人は古城に戻ります。
下の階で警察と軍隊側がケーンをめぐる処遇についてモメているなか、
上の階では怪我を負いぐったりして毛布がかけられているケーンと、
そんな彼を心配そうに見つめているカットショウがおります。
自分のために命をかけて闘ってくれたケーンに対し、カットショウは敬意を表し「Sir」をつけて話しています。
ケーンはここでもカットショウに問います。
「なぜ月に行かんのだ?」
カットショウは涙ながらにとうとう本音をこぼすのでした。
「怖いからです」
と云い、星は冷たくてあんなにも遠くで、孤独で空っぽである、と。
カットショウはこれまで地球のまわりを何度も周ったそうです。そして、もし、
月に行って帰ってこれなかったら宇宙の果てで死ぬのが怖いと言いました。
「神もいないなら(死ぬときは)本当にひとりぼっちだ」
ケーンはそれを聞いて、
神はいるのだと君に教えたいと言いました。
「例を示せば君を救えるかもしれない。皆をも救えるかもしれない」
ショック療法を試せば良かった、とも言います。
そしてそのまま眠ってしまいました。
カットショウは彼に近づき、自分があげたメダルを彼が身に着けているのに気づきす。
メダルはそっとそのままにしておき、ケーンの頭をなでて、部屋から出ていきます。
カットショウは部屋から出て、落ち着くために階段に座ります。
すると、自分の靴に血が!
そうなのです。ケーンはナイフを使って自ら命を絶ったのでした。
<それから月日が経ち・・・>
あの古城に一台の車がやってきました。
降りてきたのは運転手の軍人と、カットショウでした。
カットショウはもはや、おちゃらけた、「SATC」のキャリー・ブラッドショー並みのクローゼットを持つ男ではありません。軍服をピシィッと来ております。どうやら少佐に階級が上がったようです。
彼は誰もいなくなった古城を見て回り、ケーンがいた診察室に行きます。
そこで、(いつ書いて渡したんだ?とおぼしき)ケーンがカットショウ宛に書いたお手紙を読み始めます。
その手紙にはこう書かれていました。
”この死のショックが治療に役立つなら喜んで死のう
これで君にとっての1つの例ができた
君を傷つけていたのならすまない
きっとまた会えるだろう”
カットショウは悲しみつつ、車に戻ります。
運転手の軍人が「ここに人殺しの医者がいたんっすよね」と言うと、
カットショウが「彼は天使だ」と返し車内に乗り込みます。
車が発進しだすと、カットショウは運転手に止めるよう指示をします。
カットショウが何だこれ?と車内に落ちていたものをよくよく見てみると、
それは彼がケーンにあげたあのメダルでした。
カットショウは信仰を取り戻し、これで善を信じることができるのでした。
このとても素敵な笑顔で本作は幕を閉じます。
"死んでも命があったら合図をしてくれ"とカットショウは云いました。
"一つ例を示すことができれば"とケーンは云いました。
それが、このメダルに集約されておるのですがな。
<月に行こう!>
私は鑑賞一回目は、カットショウはケーンが死んだあと宇宙飛行士として復帰し、
大尉から少佐(大尉のひとつ上の階級)に出世したのかな?と思っていたのですが、
鑑賞二回目で考えが変わりました。
↓
カットショウはケーンが死んだあと軍人として復帰し、アレのソレのコレで少佐となり、そしてこのメダルを持って宇宙飛行士として月に行くんだ、と。
ケーンはカットショウに「皆のために自分を犠牲にする兵士」の話をしていました。
彼はカットショウに対する治療として、自らの命を捧げました(ショック療法)。
そしてカットショウに信仰を取り戻させるために、(車内にあるはずの無い)
メダルを出現させました。
"ひとつの例を示せば"カットショウはまた神を信じるようになるからです。
恐怖が無くなったカットショウは再び宇宙に行きます。
自分の命を犠牲にしてまで、人を救った(カットショウに信仰を取り戻させ再び人生を
歩んでいく勇気を与えた。すなわち生きること)ケーンは虐殺してきた罪を赦され
天国に行くのです。過去の苦しさからケーンの魂は解放されるのです。
ケーンは死ぬ直前まで自分が"キラー・ケーン"だと自覚はしませんでした。
しかし、度重なる悪夢やフラッシュバック(メダルの鎖によって誘発されたりもした)、
もしくは発作的に起こる強烈な怒りは、記憶は過去を覚えていないが、魂は過去を忘れていない。それが彼を常に苦しめている、そういった風でした。
その苦しみからケーンは天国に行くことにより解放されると私は考えました。
結果的に二人は互いを救済したことになります。
って、どうでしょうか。ぜぇぜぇ・・・ฅ(◜ﻌ◝ฅ; )つ、疲れたんだが・・・
<信仰三部作の内のひとつ>
本作はブラッティさんの"信仰三部作"のうちの一つなのであります。
(「エクソシスト」、「エクソシスト3」がその他の二つに該当。)
私は本作を鑑賞後、信仰とは・・・
”神を信じ、神の愛に自らを委ねることによって貴方の悲しみや苦しみ、恐怖は必ず報われるから何も恐れず未来を歩いて行こう”
という、自分で云っときながら苦手な"前向きソング"みたいな歌詞になってしまったのだが、でもまあ、「そういうことなのかな?」と解釈しました。
宗教的に節操のない日本という国のなかにおいてもFAITH NO MOREな私には理解しがたい考えだったりするのですが。
本作は信仰のうえに"自己犠牲"に至るまでを丁寧に描写しているから、こんなに自分の中でも余韻の残る作品になったのかな、と感じました。
ネットの海中で誰かがラース・フォン・トリアーの「奇跡の海」と云っていて、
「あぁ~確かにエミリー・ワトソン演じるあのヒロインと本作のケーン大佐の(狂気を感じる)"ひたむきさ加減"はとてもよく似ているなあ」と。
なので「奇跡の海」が好きな人は本作もお勧めです。
ブラッティさんのバイオグラフィを読んでいると、彼はガッツリ信仰に熱い人という印象を受けるのですが、
私は、ブラッティさんの描く"悪魔"って、「生きていくうえで必ず遭遇する人生の"負"の部分(故に人が乗り越えないといけない対象)」を表しているのかな?と思っていますし、そう捉えました。
<数奇なる運命の人>
というわけで、リーガンといいケーンといい、なんかおかしな人によく出会うカットショウなのであった。
私は鑑賞の途中で「ケーンは"天使"なのでは!?これは凄いことを発見したで!」と自分の才能にゾっとし意気揚々だったのですが、
最後、台詞ではっきりと活字化されていましたね。
私はアホなのか。
アホなのか。
ジ・エンド。
<正直いってわからなかった箇所>
やはり、"ショック療法"というキーワードですかねぇ。
どう扱えばよいのか、ちょっと混乱します。
手紙に書かれてた「この死のショックが治療に役立つなら喜んで死のう」っていつの時点で書かれたものなのか。
どういう考えでケーンは自殺したのか、ここが分かれば謎は解けるんですけども。
恐らく原作を読めば良いのかしら?
原作読んで分からなかったら、死んであの世に行ったときにでもブラッティさんに訊くしかないですね。
(私は宗教は信じないが、あの世は信じている)
あと、ケーンが夢で見た、宇宙飛行士とキリストの対面シーンですね。
海外ではこのシーンが表紙になっている原作本もあるみたいですね。
あの宇宙飛行士はカットショウを表していると思うのですが、彼が宇宙でキリストに出会う、つまり信仰を確固なものにするのを予知夢てきな意味で見ていたのか。
ケーンは「他人の夢を見る」(その他人ってキラー・ケーンのことだから所謂自分自身
なんだけどね)という台詞があるので、カットショウの夢を見ていたのか。
考え出すとキリがない本作なのでした。そこが魅力なんだけども。
ブラッティさんが生きていたらイーサン・ホーク主演の「魂のゆくえ」の感想を聞いてみたいものですね。
<追記>
この記事・イッツ・ネバー・エンディング・・・と、ひたすら書いてました。
誤字脱字奇妙な文章があっても総無視して欲しいです。
次は佐川一政について書きたいなあ。
こういう、細かい小道具も本作の魅力のひとつだと思う。
怪抱ぽんず